私の平成史2~友との再会、盟友の誕生~

1993年8月NHKを退職した後、梶山静六代議士の事務所にご厄介になりながら政治家への道を模索しました。

口では衆議院議員を目指すと大見えを切っていましたが確かな基盤など全くなく一人で吠えているに過ぎませんでした。

生活の方は、NHK時代からの知人である会社の副社長から顧問として雇ってもらい何とか最低限の土台は作れました。

荒れる海に木の葉のような小舟でこぎ出すという文学的表現があります。その通りの状態でした。

日々不安感との戦いだったことが心に刻まれてます。今思い返しますとよくぞ潜り抜けたという思いがします。

この人と思い定めた人に手紙を出し心境をつづり支援を求めました。最初にある小中高の同級生にすがる思いで書きました。

後に私の町長時代に副町長となり、目覚ましい働きをして町政を支えてくれた小澤均さんです。

小澤さんとは卒業後、ほとんど交流はありませんでした。手紙を出す数年前に同級生の結婚式で言葉を交わしたぐらいでした。

しかし、小澤さんに手紙を出さなければとなぜか駆り立てられました。思いのたけを文章に込めました。

受け取った小澤さんが話していましたが小澤さんも「来るべき便りが来た。」という衝撃を受けたということです。

私は、この世に生まれる前に小澤さんと約束していたと理解してます。私の人生の最大の転機の時は助けると。

その通り、小澤さんは、強力な支援者であり続けました。精神的な意味も含めて最強の支えでした。

開成町役場の職員ですので政治活動の表舞台にでることはできませんでしたが同級生をまとめる要でした。

選挙活動のパフォーマンスのアイデアはいつも小澤さんが考えてくれました。演劇までやったことがあります。

同級生が中心となって「つゆき順一物語」という創作劇を作って選挙活動の場で上演をしたのです。

私が後に町長になった時、小澤さんを一日も早くしかるべきポストに就いてもらうかを練りに練りました。

8年かかりましたが3期目の時に念願の副町長に抜擢することができました。期待に応え縦横無尽の働きをしてくれました。

もちろんいつもお手手つないで仲よくという訳ではありません。対立することもしばしばありました。

しかし底流に流れる信頼が崩れることはありません。信頼という言葉が何を意味するかを教えてくれました。

信頼感とは何かと問われれば、その人がどんな失敗をしても自分のこととして受け止められることと答えたいです。

町長時代、小澤さんが行って上手くいかなかったのならば自分の責任だと覚悟を決めることができました。

私は、安心して外を飛び回ることができました。安心感を持ちながら仕事ができる喜びは何物にも代えられません。

私と小澤さんは、私の人生の最大の転機を支えてくれたことで信頼感の土台ができ、行動を共にし信頼感の厚みが増しました。

盟友という言葉があります。平然と苦楽を共にできる友人です。小澤さんは盟友だと断言できる人物です。

小澤さんは、私の平成史に決して欠かせません。信頼とは何か、そして盟友とは何かを教えてくれました。