1994年4月またもや転機が訪れました。ご厄介になっていた衆議院議員の梶山静六事務所を離れることになりました。

地元の開成町にもどりそこを拠点に衆議院議員を目指すと漠然に考えてきました。とてつもない壁がありました。

河野洋平衆議院議員というか自民党総裁でした。常識的にあり得ない選択としか言いようがありません。

当時、衆議院の選挙制度が大きく変わり小選挙区制度が導入されようとしていました。私はそこに目を付けました。

河野総裁は自宅のある平塚に回るはずだと勝手に決めていました。小田原が空くのチャンスはあると見ました。

ところが河野総裁の方が小田原の17区で息子の太郎さんが平塚の15区に回る流れとなっていきました。

ぐずぐずしていてはチャンスはなくなると反河野で勝手にのろしをあげて走り出してしまったのです。

自民党の大物である梶山静六さんの事務所にはいられなくなりました。梶山さんに決断を報告しました。

梶山さんは剛腕で鳴らし自民党の幹事長や内閣官房長官を務めました。表向きとは違い緻密で情の人でした。

いわば師に砂をかけて事務所を去った私を見守っていてくれました。私が町長になった後、開成町で講演をしてくれました。

直後、入院をして闘病の末2000年6月に亡くなりました。自らの身体が悪いことを知っていて足を向けてくれたのでした。

梶山事務所を去るということは看板がなくなることで、私は、徒手空拳の存在となってしまいました。

小中高の同級生、地元の自治会をはじめとする開成町の皆さん、それと親せきぐらいしか頼るところはありませんでした。

事務所を無償で貸してくれる支援者が現れて事務所を開成町役場近くに設けました。しかし組織的な動きはできません。

無所属で草の根が政治を変えると言い張って紹介されたところを一人で回りまくるのが唯一の選挙運動でした。

小澤均さんら同級生と私の住んでいる地元自治会が車の両輪と言えば両輪でした。国政選挙を目指す体制にはほど遠いです。

若気の至りと言ってしまえばそれまでですがほとんど狂気でした。馬鹿なことをしているとみていた方が多かったと思います。

若干ですが組織的な動きが出てきたのは1995年4月の統一地方選挙で開成町議選に候補者を擁立できたことです。

仲間から初めての政治家誕生となりました。現在の開成町長の府川裕一さん、その人が候補者でした。

当時の府川さんは、政治については全くの素人で同級生たちがみんなで後押しして500票を超え2番目の得票でした。

私と府川さんとは現在はまちづくりをめぐって厳しく対立をしていますがもともとは同志でした。

府川さんも当時は私が衆議院議員になることを一緒に目指しそのために町議選に立候補したのでした。

府川さんの家庭もてんやわんやだったと思います。突如、町議選に出ると宣言し走り出してしまったのですから。

結果オーライでした。これ以降、府川さんが私の選挙運動の分身となり二人三脚の選挙運動が始まりました。