私の平成史5~敗退~

1996年10月20日衆議院に小選挙区制度が導入されて最初の選挙が実施されました。

小田原市、秦野市を中心とする神奈川県第17区の選挙結果が出ました。次点で敗れました。

河野洋平 自民 10万5282 露木順一 無所属 59005 斎藤尚之 新進 49419 小澤睦夫 共産 21572

既に解党して無くなってしまった旧民主党の推せんはもらったものの無所属を貫いた結果でした。

選挙のあった1996年の選挙運動の盛り上がりは奇跡的でした。地元開成町だけでなく時代を創ろうの呼びかけが広がりました。

親せきが多い山北町、中心都市の小田原市にも後援会ができました。秦野市、湯河原町、箱根町も拠点ができました。

7月に小田原市で、9月に秦野市で決起集会を開催しました。いずれも1500人が集まり超満員でした。

前年の12月、開成町の決起集会で大失敗した演説も今度はメリハリをつけゆっくりと大きな声で語りかけました。

声は響き渡りました。同級生によるオリジナルの応援ソングもさわやかな感動を呼び起こしました。

組織、政治資金は全くなしですので手弁当で応援してくれました。よくぞ応援して下さったと思います。

やれることはやったとの思い込み、河野さんの背中に手をかけ牙城に迫ったと信じていました。

しかし、その考え方はとんでもなく甘かったです。長年にわたる地盤を崩し切ることは容易ではありません。

もしそれを実現できるとしたら河野洋平さんに反発する勢力を一本化して一騎打ちに持ち込むことでした。

反河野勢力が根強く存在することは実感としてわかりました。しかし反対勢力の一本化する策がありませんでした。

票数だけをみれば河野洋平さんの得票率は50パーセントを切っており反対勢力がまとまれば勝てました。

小選挙区のように1人を選ぶ選挙では対抗する側がばらけてはダメなのだという鉄則がよくわかりました。

勢いが良いと強大な相手をなめ出し倒せるとの幻想を持ちがちです。それは本当に幻想に過ぎません。

現職の強みは対抗する側が迫ってきたところから発揮されます。かねてよりの地盤を再び締め直し跳ね返します。

敗戦の晩、山北町、小田原市の選挙事務所を回った後、深夜、開成駅前にプレハブで作った選挙事務所に戻りました。

支援者が待っていてくれました。誠に申し訳ないと陳謝しました。「お疲れ、お疲れ」の声がかかりました。

私と一緒に敗戦を詫びてくれたのは二人三脚で選挙戦を戦い続けてきた現在の開成町長の府川裕一さんでした。

府川さんは目から大粒の涙をボロボロこぼし頭を下げてくれました。この場面は忘れることができません。

この選挙の時は、あまりに純粋過ぎて国政選挙でバッジをつけるための算段をとるところまで知恵が回りませんでした。

国政選挙は無所属では無理でした。推せんではなく入党して組織的な支援を得て戦わないと迫ることはできません。

結果として素人選対となってしまい同級生を始め多くの皆さんにとんでもない負担をかけてしまったと今も心が痛みます。