私の平成史6~転身~
1996年10月21日早朝、小田急線開成駅。衆議院選挙敗戦から一夜明けた早朝、声援に御礼の気持ちを込めて駅頭に立ちました。
多くの方から声をかけられました。途中から恥ずかしさがこみ上げて来て正面を向くことが出来なくなって行きました。
全く知らないところで応援してくれた人が大勢いることをきちんと意識して活動をしてこなかったことで申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。
決定的に「ありがとう」が足りませんでした。応援してくれるのが当たり前みたいな接し方をしてきてしまいました。
駅頭での早朝のあいさつ活動は、敗戦の年、1996年の年末まで続けました。私としてのせめてものお詫びの気持ちでした。
選挙は終わった後が大変と良く言います。本当にその通りです。組織が無く大きな選挙を全面展開したつけが一気に襲ってきました。
お礼をしたくても手がありません。私と妻で回るしかありませんので、どうしても手薄になります。十分な御礼が出来ません。
ここでも失策をしまくりました。お礼のあいさつが十二分にできずに厳しい声があちらこちらから聞こえてきました。
後援会組織がしっかりしているか否かは、選挙後の方が大きな影響を持つと痛感しました。本当に大変ないち時期でした。
再びルンペン暮らしみたいになりかけました。知人の企業経営者に支援の継続をお願いし何とかしのげる体制を作りました。
また、政治的身の振り方を考えなければなりません。大きな選挙を継続する資金がもはやありませんでした。突っ込めば破滅してしまいます。
勝利が見通せる方向への転身は自らの生活を継続して行くためにも止む得ない判断でした。国政ではなく地方政治へと目を向けました。
父親が町長でした。町長から原点に立ち返って再起を期そうと決心するのにそれほど時間はかかりませんでした。
1997年の早々からそちらの方向で行けないか模索が始まりました。衆議院選挙を応援してくれた方の中からは強い異論がくすぶりました。
開成町内は、父の地盤もあるので流れが作れるのではないかと勝手に思いましたが全くの読み違いでした。現職の町長がいますので簡単ではありません。
アヒルの水かきみたいな日々が半年ほど続きました。父の墓で「私を開成町で働く場を下さい。お願いします。」と心の中で叫びました。
私の町長への転身を強力に支援してくれたの方は、父の町長時代、助役を務めた方でした。私の開成町内の後援会の流れを決してくれました。
この方の長老としての発言が無ければまとまりませんでした。亡き父が天から応援してくれたに違いないと思います。
現職町長は勇退の方向となり、秋にかけて町長選挙への体制が徐々に整いました。後は対抗馬が出馬するかどうかでした。
衆議院選挙で地元の最有力者の河野洋平さんと激突しています。河野さんを支援する開成町内の基盤も当然あります。
11月になって河野系の町議の立候補が固まりました。一騎打ちです。政治は戦いですので選挙で勝って地位を得るのは当然のことです。