私の平成史⑪~亡き父との対話~

父と同じ町長という仕事に就くことができ、初めて本当に父と対話ができるようになった感じがしてなりません。

父は、帝国陸軍の軍人で、旧満州、現在の中国東北部のソビエト(現ロシア)との国境を守る大隊長でした。

激しい戦闘を展開し、戦後はシベリア抑留4年半という体験の持ち主です。この経歴からわかるように厳格です。

子供のころは殴られたりもしました。ですので小学生のころぐらいから早く自宅を出たいという願望を抱いていました。

大学に入り下宿ができて、家を出る夢は実現し、就職先は、NHKでしたので家とは距離ができました。

大学に行ってから、ようやく父に反論をしたりできるようになったほどです。厳父という言葉そのものの存在でした。

そんな父がひどく弱々しく見えた時期がありました。町長5期目、最後の任期の途中でした。

町長になった時からの夢であった小田急線開成駅の誘致は、もう少しのところで足踏みでした。

もうひとつ、隣の南足柄市の合併問題を提起して走り出していました。町民の反発が強く容易ではありませんでした。

私は、父に敢然と言い放ちました。「主張を貫き、ダメだったら辞めればいいじゃないか!」

従順だと思っていた子供が、突然に大人になり、自分に意見をしたことに明らかに戸惑ってました。

結果的には、新駅の誘致は、任期中には実現せず、また、南足柄市との合併も破談となりました。

父が、町長を辞めた翌年、1984(昭和59)年のお正月、妻と1歳の長男と帰省しました。

勤務先の兵庫県姫路市に戻る時、父が玄関先まで出てきて、玄関の前に立ちずっと私たちを見送ってました。

今までそんなことはありませんでした。私も父の姿を振り返るとなぜか涙が止まりませんでした。

父が持病の心臓病で急死したのは、その年の4月11日でした。あの時が父との最期の別れの時だったのです。

父から町長時代の話をくわしく聞いたことはありませんでした。町長についてある新聞記事を見つけました。

1975(昭和50)年2月、町長選挙に4選を果たした直後、神奈川新聞のインタビューに答えていました。

これまでの町政の歩み、開成町の未来像、存分に語ってました。1ページ全部を使った大きな記事でした。

3分の1は、将来の食糧危機に備えて農地として残す、小田急線新駅誘致によって足柄上地域の核となると語ってました。

農地として残すという地域が開成町のシンボルとなっている美しい田園景観の中であじさいが咲き誇る「あじさいの里」です。

時代は、今と違っていけいけどんどんの高度成長時代です。開発に規制の網をかぶせるのは一筋縄ではいきません。

町長になって父の世代がやり遂げた事業の偉大さを知りました。父を誇りに思うことができました。

それからというもの仏壇や菩提寺の墓に向き合う態度が一変したように思います。いい加減な姿勢では無礼です。

私が町長1期目から、前のめりになって走り続けたのは父親の世代の労苦に応えるという使命感があります。