足柄地域を対象に発行している小さなローカル新聞がありました。「自治新報」という名前の新聞でした。

発行主の内田勇さんは、私の父が大変に懇意にしていて、父が急死した後、「甚さんの思い出」という冊子を発行してくれました。

内田さんより時折投稿を誘われました。ふたつ返事でお願いしました。書くことで自分の考え方が整理されます。

また、官公庁や地方議員が「自治新報」の読者ですので、まちづくりの考え方の発信の場とすることができました。

町長1期目、最悪の2000年が過ぎ、21世紀が幕を開けました。新年早々に訃報が届きました。

隣町の松田町の平野興二さんです。元建設省(現国土交通省)のエリート官僚でふるさとの町長に転じ3期務められました。

4期目の町長選で敗れ再起を期しているところでした。61歳で病に倒れこの世を去りました。

私は、町長に就任以来、平野町政に注目していました。中央省庁の官僚でしたので発想のスケールが大きいです。

キャリアからして当然ではありますが、国の補助金を獲得するのが得意でした。その手腕は学ぶところが大いにありました。

また芸術に関心が深くロマンチストでした。自らのロマンをまちづくりで現実にしようと転身されたのだと推測します。

そうした平野さんの夢が凝縮されたのが松田山の中腹を切り開いて建設したハーブ館や子供の館でした。

現在は、この辺り一帯、早咲き桜が植えられていて期間中30万人近くが来場する町を代表する観光スポットとなっています。

松田町の象徴を土木工事を土台に文化の香りをふんだんに散りばめて建設した建物は平野町長の魂がこもってます。

内田さんの「自治新報」に平野町長の死を投稿しました。タイトルは、「生きること」と「死ぬこと」でした。

記事のコピーが残ってます。改めて読み返してみました。書いた時の感慨が鮮烈によみがえってきます。

当時「明日がある」という歌が流行ってました。突然「明日がない」と宣告されたらどうなるという書き出しです。

平野町長が自らの死を意識したころ、高見順の「新聞少年を讃える詩」を目にして号泣したという一文を「自治新報」に寄せてます。

新聞少年の純粋な健気さに対し様々な欲に囚われている自分を嘆き、結果として現在の自分をあるがままに受け入れます。

最後に自らの短歌を記してます。「のすみれも富士の高峯に語るらん さやかにいしき武士(もののふ)の心」

平野町長は、辞世の歌の中で自らを「武士(もののふ)」と表現しました。読み返してみて、この言葉に撃たれました。

まちづくりは、戦いの側面があります。困難な事業ほど反対する住民も多く説得に命を賭ける仕事だといえます。

平野町長にとっては松田山の開発事業がまさにそれに当たります。当時は反対の声も当然ありました。

それでも平野町長は、事業を成し遂げ急ぎ足でこの世を去りました。松田町にとってかけがえのない財産を残して。

「武士(もののふ)」という言葉も同様です。まちづくりに携わる者に対し平野町長が伝えようとした遺志です。