私の平成史㉝~古民家再生6~

(足柄の歴史再発見クラブ『富士山と酒匂川』より)

瀬戸屋敷の再生に関連して町民の皆さんにもう一度考えてもらいたいことがあります。富士山の噴火です。

瀬戸屋敷の裏庭を掘り進めたことがあります。近所で土建業を営んでいた中野建設の協力のおかげでした。

2メートルほど小型の重機で掘ると黒い砂の層がふたつ出てきました。スコリアと呼ばれる火山の噴火砂でした。

富士山の宝永噴火は1707年11月(旧暦)です。噴火は一時期のはずですのでふたつの層というのは不思議です。

実は、黒い砂は、噴火後に発生した洪水で運ばれてきた砂でした。2度大きな洪水があったということです。

記録によれば大噴火の翌年の1708年6月と、1711年7月に大洪水が起きていることがわかります。

噴火の砂が山中や河川にも降り注ぎ河床が上がり洪水を引き起こし瀬戸屋敷のある一帯も水浸しになりました。

瀬戸屋敷は、この大災害の後建設されたとみられます。建物には苦難がしみ込んでいると見るべきです。

中野建設のご厚意で掘ってもらった地層を標本にしました。剥ぎ取り標本といわれるやり方です。

地層に大きなガムテープを張り付けたのち剥がしてテープに地層の跡がくっきりと残るという感じです。

瀬戸屋敷の土蔵に展示してありますので一度ぜひご覧になってください。当時の苦難が想像できます。

富士山の噴火の危険性が再び叫ばれるようになりました。内閣府では噴火の砂の影響について調査を始めました。

300年前の噴火の際は火山灰は西風に乗り江戸にまで運ばれ数センチ積もったとの記録が残ってます。

現代において同様の被害が起きたら交通や通信機能がマヒして首都中枢は大混乱に陥ることが確実視されてます。

政府としては最も被害が大きい静岡県東部、山梨県南部、神奈川県西部より首都・東京の被害に関心が向きがちです。

マスコミも政府の意向に沿って報道する傾向が強いので、被害の大きな地域住民の関心が薄れる恐れがあります。

開成町は、瀬戸屋敷という格好の発信の拠点を有しています。この場をもっと活用すべきではないでしょうか。

少なくとも剥ぎ取り標本を中心に300年前の富士山の噴火という激甚災害を伝える常設展示を整えるべきです。

そしてタイミングを見て瀬戸屋敷全体を使って富士山の噴火を見つめ直すイベントを企画する必要があります。

大噴火と洪水によって近くの山中への避難を余儀なくされ何十年も避難所暮らしをせざるを得なかった方も大勢います。

災害の歴史を伝え決して過去のできごとではなくいつ起こるかわからない災害であることを喚起する必要があります。

ひな祭り、あじさい祭りといった観光イベントも大切です。しかし瀬戸屋敷は町役場の所有物です。

300年前に実際に起きた大災害を後世に伝えることは町として考えるべき瀬戸屋敷再生の使命の一つです。

現状はこうした視点がすっかり見失われています。今すぐにでも再検討の場を立ち上げて欲しいです。