白い巨塔~人を手段としてみるか否か~

岡田准一主演のテレビドラマ白い巨塔で最も印象に残った台詞があります。患者のためか自分のためかでした。

名門国立大学病院でトップの座を虎視眈々と狙う財前五郎は、自分のために患者を診ます。

財前と対照的に一切の出世欲を脇に置き自然体で生きる里見脩二は、患者のために患者を診ます。

そしてこの違いはありとあらゆる局面において、その人の生きざまを見る判断の基準となる見方だと思いました。

人間として生きている以上誰しも欲望があります。食欲や性欲といった生存に関わるものが一番底にあります。

その上に名誉欲、権力欲といった自我の欲望が覆い被さります。財前は、この欲望に取りつかれてしまったわけです。

人間として立派に生きるためにはこのレベルの欲望をいかに統御できるかがカギとなると思います。

より高次の精神性で御するしかありません。里見は、医師としてよりよく生きる倫理観で自らを律しました。

財前は、里見とは真逆に医師としての倫理観を自我の欲望で覆いつくしてしまったことになります。

あくまでもこれは極端な事例として描かれていますが、人間は、誰しもこのはざまで悩み苦しむのではないでしょうか。

普通の人は欲望に負けてあるべき倫理観をそっと隠して生きてみんなそうだからと自分を納得させています。

里見のようにはなかなか生きられないというのが本当のところです。そうだからこそ里見の価値があります。

里見のすごさは、対象となる人、里見の場合は、患者さんを決して手段としては用いないという点にあります。

利用しないと言い換えた方がわかりやすいかもしれません。自分の様々な欲望を実現するために利用しないのです。

財前が人を常に手段として見ているのに対し里見はその人本来の人生を全うしてもらおうとしている訳です。

決定的な違いです。財前にあっては人は生きるしかばねであり物体です。里見は全く違います。

人は文字通り生命を宿し躍動している存在です。その人の持っている生命力を蘇らさせようと苦闘しているのです。

人を手段とする場合は、常に計算が働きます。財前は、生き死にを左右する手術すら出世の手段でした。

愛のない冷たい世界観ですが、そうした世界観の持ち主の方が欲望にまみれた世界を切り開くには有利です。

人を物体と見た方が判断が楽です。自由自在に扱っても苦痛はほとんどありませんからやりたいことができます。

一方、あらゆる人の人生には目的があり生きているなどと考えていては判断が鈍りますし悩みます。

ドラマの結末は、財前には死が、里見には、患者からの信頼がもたらされました。財前は敗れたのです。

これは何を意味しているのかといえば、あるべき理想を求めることは決して虚しくはないことを表現しています。

美しい理想を掲げることが気恥ずかしく感じられる風潮が強まる現代社会の中でよりよく生きるとは何かを問いかけました。

決してドラマの中のおとぎ話ではないと思います。今最も必要な生きざまを里見脩二は示していると思いました。