常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)

昨日、私の従兄弟の一周忌がありました。小田原市内の日蓮宗の寺院で法要が行われました。

住職が法要の後、長めの説教をされました。法華経の中の有名な一説についてでした。

新鮮でした。法事が儀礼的になり住職がこうした説教をする場面が少なくなっているからです。

昨年の4月に仏教研究家の植木雅俊さんがNHKの教育テレビで行った「法華経」の話を題材にしました。

私も大好きな「100分de名著」でした。「常不軽菩薩」について話をされました。

「常不軽菩薩」とは、その名前の通り「いつも何事があっても軽く見ることがない菩薩」という意味です。

宮沢賢治の有名な詩「雨にも負けず」の「デクノボー」は、「常不軽菩薩」をモデルにしたと言われます。

植木さんが書いたテキストに従って「常不軽菩薩」とは、どんなことをしたのかを見て行きましょう。

「常不軽菩薩」は、男女の分け隔てなく、「私はあなた方を軽んじることはありません。」と言い続けました。

その理由は「正しく完全に覚った尊敬されるべき如来となるでしょう」というものでした。

相手を尊重して「常不軽菩薩」は出会う人すべてにこのように語って聞かせたというのです。

法事の際に住職も言ってましたがこのようなことを言い続ける人が現れたら、少しおかしい人だと誰もが思います。

「常不軽菩薩」に対し、人々は、怒り、危害を加え、嫌いののしり、非難したということです。

しかし、「常不軽菩薩」は、誰に対しても怒ることなく憎しみの心を生じさせなかったと言われます。

その結果、最後には、「常不軽菩薩」は、誰からも「軽んじられることの無い存在」になっていったというのです。

法事の住職は、「常不軽菩薩」の話を人は誰でも平等という見方から捉えていました。

男女や職業の区別なく平等に覚ることができる人間としてみているところに意義を見い出していました。

私はむしろ「常不軽菩薩」の生き方に深く考えさせられます。「常不軽菩薩」は、何を言われても受け流します。

ここに「常不軽菩薩」のすごさを見い出します。反論したいという欲望がないことは驚異です。

私はもちろんそうですが、自らの正当性を言いたがります。言わないまでも心の中で思います。

しかし、「常不軽菩薩」は、そうした欲望を完全に超越しているのです。何がそうさせるのでしょうか。

「人はいずれ覚る」という確信からだと考えるしかありません。ではその確信はどこから来たのでしょうか。

仏教で言うところの「信解」としか答えようがありません。信ずることから全ては始まったのです。

「信」とは、疑いが一切なくなった状態です。こうして始めて「解」すなわち頭で理解できることへとつながります。

信じるしかありません。信じるとは、相手を全て尊重することから始めなければなりません。

全てを信頼して全てを受け止めていると発見できるのは全てを信頼している自分ということになります。

従兄弟の法事で「常不軽菩薩」に出会い、全てを尊重することから始めろと教えられた気がします。