東京・あきる野市の歴史を学び地方創生を考える
昨日に引き続き東京都あきる野市の話をします。あきる野市は、1995年に誕生した新しい市です。
東京三多摩の中心地、八王子市の北隣に位置し、面積73平方キロ、人口8万人の小さな市です。
秋川市と五日市町が合併してあきる野市となりました。名前の由来は、神社に関連します。
神社から名前をとったということからして由緒ある地域の歴史があることが伺われます。
平安時代の記録に既に記載されている阿伎留(あきる)神社を合併の際に名前にしたとのことでした。
この地域は、平安時代から馬の産地として知られていたほか、戦国時代から、炭の生産が盛んでした。
江戸時代、炭の生産はさらに拡大し現在のあきる野市の五日市地域は大いに栄えた中心地だったのです。
スギやヒノキの生産も盛んでいかだを組んで多摩川の流れに乗せて江戸まで運ばれました。
また、養蚕も盛んで全国的に黒八丈と呼ばれる泥染めの特産の絹織物を開発しました。
この勢いは、明治時代になっても続きました。裕福な商人や農民が数多く誕生しました。
明治になってから1872年に神奈川県になり、1894年に東京都となり現在に至ってます。
明治以降は絹の生産拡大に努めました。絹は、八王子に集められて横浜へと運ばれ日本を代表する輸出品となりました。
現在の感覚で言うとあきる野市は、東京の西の端にある秋川渓谷で有名な自然豊かというイメージを持ちます。
しかし、それは、現在の色眼鏡で見ていて実像ではありません。江戸時代から明治までは経済の中心地だったのです。
経済が盛んな地域には人が集まります。現在の東京都の中心部を見れば一目瞭然です。
このような経済的背景があってあきる野市地域は、明治時代、自由民権運動が盛んになりました。
明治維新以降西洋の文物が流入し新しい学問を積極的に吸収する政治的風土があったのです。
経済的に自立し学問に関心を持つ層の厚みがあったと言い換えても良いのではないかと思います。
こうした地域には、全国から有能の士が集まってきます。代表的人物が千葉卓三郎でした。
江戸末期に現在の宮城県から移り住み五日市勧農学校の教師を務めながら自由民権運動の指導者となりました。
千葉らの動きに深澤権八ら地域の有志達も呼応して学習会を開催し、かの有名な憲法草案を作成されました。
「五日市憲法草案」です。民衆自ら学び国家の基本となる憲法草案を創ろうという志の高さに圧倒されます。
千葉は31歳、深澤は、29歳で病没しました。短くともその鮮烈な生涯は歴史に刻まれています。
少子高齢化・人口減少の現代日本、脱却の道を考えた時にあきる野市のかつての隆盛に手がかりがあります。
地域経済を盛んにすることにつきます。お金が回り出せば地域に資本が蓄積し人材も集まり文化も盛んになります。
地域密着の産業といえば農林水産業です。現代の直面している課題は、医療・福祉・教育・環境です。
農林水産業×医療・福祉・教育・環境=地域密着型の12次産業を興すことが具体の目標となります。