岩波新書『五日市憲法』を読む

1707年の富士山宝永大噴火後の酒匂川の治水工事を行った田中丘隅の生まれ故郷、東京都あきる野市。

先月23日、かねてより尊敬して止まない地域の恩人のお墓をお参りすることができました。

帰りに田中丘隅の紹介がされている五日市郷土資料館を訪ねました。展示の主役は田中丘隅ではありませんでした。

展示の中心は、1880年代全国で広がった自由民権運動と関連のある民間の憲法制定の動きでした。

「五日市憲法草案展示コーナー」がありました。五日市で新たな国づくりの指針となる憲法草案が練られてました。

中学、高校時代に戻った気分がしました。かつて勉強した記憶がよみがえってきて懐かしさを覚えました。

民間の有志が結社を作って国家について論じ国会のルールである憲法についても策定の動きが全国で見られました。

私擬憲法といわれるものです。その代表格として「五日市憲法」がありその中身の先駆性が評価されてきました。

戦後の日本国憲法を先取りしたかのように国民の基本的人権を守るべき権利として明記されていたからです。

五日市郷土資料館を訪れた後、調べ直したいと思い立ち岩波新書の『五日市憲法』を大急ぎで読みました。

不勉強のまま長い年月生きてきてしまったことを恥じました。目からうろこの印象が強かったです。

まず「五日市憲法」なるものは存在しないという事実です。正式名称「日本帝国憲法」の草案でした。

「五日市憲法」という名称は、1968年に旧家の土蔵に保管されていた草案を調査したグループが名づけたものです。

中心人物は、著名な歴史家、色川大吉東京経済大学名誉教授です。民衆の立場に立つというのが原点の歴史家です。

五日市の人々が、民権運動を受け入れ、講演会などを実施した雰囲気が背景にあったことを重く見ました。

結果として「五日市憲法」という名前になりました。「日本帝国」と名前がついているのを嫌ったのだと思います。

憲法草案が策定された実態は、草案を書いたのは千葉卓三郎という元仙台藩の下級武士の青年です。

千葉は、戊辰戦争で敗れた後、向学心に燃える千葉は東京に出て語学、宗教、数学、政治あらゆる分野を学びました。

1880年当時の五日市村に移住しこれまで学んできたことを学校や講演会を通じて人々に教える機会を得ました。

千葉を支えたのは山林地主の家に生まれた深沢権八でした。有能なサムライと地域のリーダーの協力のたまものでした。

地域の人々が憲法草案を策定したという見方には色川さんらの色眼鏡がかかってしまっています。

私は、歴史は、先入観ではなくその当時の実相にできる限り近づけて見ないと現代の教訓とはならないと思います。

「五日市憲法」の持つ意義の根本は、地域の開明派のリーダー層の存在にあると私は思います。

彼らは外部の有能な人物を招き入れる度量もありました。そして何より重要なことは財力もありました。

現代への教訓は、地域の開明派の有志が結集すること、そして積極的に外部の知恵を求めることだと思います。