スマホをしまって本を読もう
孫君たちが阿波踊りの掛け声を一生懸命練習してました。決め台詞は「やっぱり踊りは止めれない」です。
私にこの決め台詞を使わせてもらうと「やっぱり読書は止められない」になります。
19日夕方2時間ほど時間の調整が必要になりました。地下鉄で3駅の神田・神保町に向かいました。
古書店の町です。店先に並ぶばら売りの古書は宝の山です。しかしこの喜びを味合うのが最近は困難になりました。
古本は字が小さくて読みにくいからです。よく読めたと思うほどです。一方、新刊本は、字が大きくなってます。
古典も再版されると字が拡大され読みやすくなっています。老眼の私は、新刊本の本屋さんに足が向きます。
19日もそうでした。神田のお気に入りの書店の書泉グランデのビルで2時間過ごしました。
書棚の本の方から読めというサインが送られることがあります。なぜか本が光って見えるのです。
19日の時は、一冊の岩波文庫が私を呼んでました。中国の文豪、魯迅が書いた『阿Q正伝・狂人日記』でした。
なぜ魯迅は、阿Qみたいな人物を小説の題材にしたのか、考え抜いた時期があったことを思い出しました。
もう一度味わいたくて定価680円プラス消費税を払って購入し帰りの電車内で読み出しました。
電車内で本を読む人は限られていて絶滅危惧種です。言うまでもなく主流派は、スマホです。
スマホは、情報がすぐ手に入り便利です。しかし、深くものごとを考える道具ではないと思います。
頁を行ったりきたり折り曲げたり時には鉛筆でメモを書いたりラインマーカーを引いたり。
紙と印刷のかすかな香りも脳に刺激を与えます。本は、5感全てを総動員させ読者に想像を駆り立てます。
行間から著者や翻訳者の思いが波のように伝わってきます。すると突然直観が閃きます。
そうだったのかという感覚です。この感覚が全身を貫く感じは言葉では言い表せません。
魯迅の小説集を読み直して、魯迅が文芸の道へと大きく進路を変えた高揚感が再び伝わりました。
魯迅は、1900年代初頭の中国人にはびこっていたいわば奴隷根性を改造するために文芸に進んだのでした。
ひとりひとりの身体を直す医者ではなく無気力な民族の精神を改造する民族の医者となろうとしたのでした。
魯迅がこの志を立てたころの中国と現在とでは天地の違いがあります。さげすまされた国は今は昔です。
世界の覇者に再び名乗り出ようかという勢いです。今魯迅が生きていたらどんな思いを抱くでしょうか。
経済の隆盛を誇る中で一方で政治的な自由があまりに制限されている現状に異議申し立てをするのではないでしょうか。
今度は、政治的自由への渇望を押し殺して経済にばかり目をむけている中国人を描くのではないでしょうか。
読書は止められません。どんどん発想は広がります。深く広く考えるきっかけを与えてくれます。
スマホで時間を潰してばかりいるのはもったいないです。時にはスマホをしまって読書の喜びを味わってほしいです。