中曽根元総理の死去に思う

中曽根康弘元総理の死去の報道が溢れています。強固な日米同盟の構築など業績を称える内容が圧倒的です。

アメリカのレーガン大統領との間で”ロン・ヤス”と呼びあう信頼関係を得て自らの山荘で接待する映像が流されてます。

山荘での接待があったから1年8か月後私はNHK姫路放送局から報道局政治部に転勤になりました。

1985年8月12日に赴任しました。午後総理大臣官邸の記者クラブに初めて入りました。

NHK官邸キャップにあいさつしました。五つ子のパパの山下頼充さんでした。歓迎会の予定でした。

ところが夜7時のニュースの前に異変が起きました。日航機が行方不明になったのです。

御巣鷹山への墜落でした。中曽根総理大臣は軽井沢の別荘から急きょ戻ることになりました。

わたしの総理番のスタートは生涯忘れることができないてんやわんやの大騒動の中で幕開けとなりました。

中曽根総理は、記者の質問にわかり易く答えてくれる総理でした。堂々たるオーラも感じました。

1986年の衆参同日選挙のことは印象に残ってます。完全にしらを切っていて断行し300議席で圧勝しました。

要因は、当時ニューリーダーと呼ばれた総理候補の竹下登さん、宮澤喜一さん、安倍晋太郎さんを競わせたからです。

3人の総理候補がしゃにむに自分の子分を当選させようと頑張るわけですから議席が増えるわけです。

選挙公約では現在の消費税につながる売上税の導入を完ぺきに否定して選挙に臨みました。

ところが大勝した後、売上税の導入に転じたものですからうそつきとの批判の大合唱で法案は廃案となりました。

熟練の政治術の持ち主も世論の反発は読み違えました。これが中曽根政権の命脈を断つ導火線となりました。

中曽根総理大臣の手法は大統領的と言われます。総理の決断を前面に出すトップダウン的な政治運営でした。

中曽根総理の手法と似通った政治運営をした総理大臣の筆頭は、小泉純一郎さんだと思います。

その小泉さんに大統領的総理イメージの先駆けだった中曽根さんは屈辱を強いられました。

2003年の衆議院選挙で小泉総理から73歳定年制を理由に直接引退を勧告されて受諾に追い込まれたのです。

この屈辱があったからこそ生涯現役で政治的発信を続けたのだと思います。執念のなせる業と私は観ます。

中曽根元総理は、101歳の生涯を全うされました。この世の評価は高いと言って間違いありません。

あの世の評価が気になります。あの世では名誉や栄達、金銭などはこの世の欲望の産物として相手にされないはずです。

どれだけ誠実に世のため人のために尽くしたかが評価基準だと思います。中曽根さんにはひとつ気がかりなところがあります。

リクルート事件で子分の藤波孝生元官房長官が訴追されて裁判での戦いに神経をすり減らしました。

政界引退後の2007年に74歳で亡くなってます。親分の中曽根さんと対照的な人生です。

親分の分まで罪をかぶったように思えてならないのです。あの世で和解ができるのかどうか注目してます。