私の平成史53~新県都創造1~
私には壮大な夢がありました。神奈川県庁を移転しようというたくらみです。横浜一極是正の特効薬です。
神奈川県の東西バランスの悪さはひどいものです。明治維新直後は対等だったのに人口はけた違いとなりました。
横浜市の人口375万人に対し県西地域の中心都市小田原の人口、20万人弱です。格差はさらに拡大中です。
横浜、みなとみらい地区をはじめ設備投資計画が目白押しです。カジノも取沙汰されてます。
小田原市は、主要企業の撤退が目白押しです。来年には、日立製作所が完全撤退となります。
明治の廃藩置県の時小田原県という県があって県庁所在地は小田原であったといっても狐につままれたような気分でしょう。
新政府の政治的思惑によって神奈川県の県庁所在地は横浜とされ小田原県は吸収合併されてしまったのです。
面白くないとずっと今も思い続けています。町長在任中にある仕掛けを企てました。県庁移転の動きです。
移転先は、県央地域が相応しいと考えました。県西地域で県庁を支えるのは実力から言って荷が重いと思ったからです。
県央地域の中心都市である厚木市の山口巌市長に打診しました。大賛成でした。山口市長が市町村長に呼び掛けました。
2004年8月のことです。名称は、神奈川未来構想研究会と名付けました。狙いは県央地域への県庁移転です。
県庁移転を起爆剤にして神奈川県内の横浜一極集中に挑戦し東西バランスを修正しようとしたのです。
会長に山口厚木市長、副会長が小田原市長、相模原市長、葉山町長、事務局長が二宮町長とそうそうたる面々が揃いました。
私は事務局として各首長間の調整に走り回りました。偉い方ばかりですので骨が折れました。
阪神・淡路大震災当時の兵庫県知事、日産の副社長、自民党の道路調査会長らを招いて勉強会を続けました。
2006年11月に県庁移転を求める報告書をまとめ松沢成文神奈川県知事に提出しました。
山口市長が2007年1月の市長選で山口さんが敗れ宙に浮きました。それ以降は、目立った動きはできませんでした。
2011年4月の県知事選挙へ立候補の打診が水面下で始まるとともに知事選の政策をまとめ出しました。
統一スローガンは、「神奈川はひとつ」でした。横浜、川崎、相模原といった大都市部との連携です。
大都市部、特に横浜市は、自分の市以外は田舎だと見下してます。横浜や川崎以外の地域を郡部とひとくくりにしてます。
わずか150年前は田舎の寒村だったのは横浜だったのですが立場は完全に逆転してしまいました。
政治の力によって横浜に集約されたのだから今度も政治の力でバランスを作り直すことは理にかなってます。
横浜と郡部が敵対関係になるのではなく相互に補い合う関係になるようにすればよいのです。
水に着目しました。大都市部の水は、酒匂川や相模川の上流の水源地から供給されている事実をもっと強調すべきです。
命の水の供給元と手をつなぐことは行政が実情の説明を丁寧にすれば際して困難なことではないと考えました。