昨年4月に京都駅前のホテルで開かれた野中広務さんを偲ぶ会には3000人の弔問客が列をなしました。

私も妻と一緒に参列しました。周囲の見知らぬ方々が野中さんとの思い出を語り合ってました。

口々に世話になったとしみじみと話していました。私たち夫婦も全く同様で足を向けて寝られません。

このように野中さんの思い出を書く機会があるたびに懐かしさがこみ上げもう一度会いたい気分に駆られます。

野中さんと初めて出会ったのは、NHK政治部で竹下派の担当になった直後のことでした。

当選3回ですでに60歳を超えていました。国家意義位になったのが50代後半と遅かったからです。

東京・高輪にある議員宿舎に夜討ちをかけました。出会った瞬間に父親と同じ匂いを感じました。

町議、町長の経験があり地方政治家の雰囲気を宿していました。他人ではないような気分に浸りました。

取材というよりも私の持論を言いたい放題語りました。野中さんは変わった男が来たと思ったようでした。

野中さんは豪胆な方でした。胆力のすごさはこれまでであった人の中で一番だと今でも思います。

野中さんが頭角を現し一目置かれるようになる時期は小沢一郎さんが実力者として君臨し出した頃でした。

権力指向の小沢さんは反論が嫌いです。逆らうということは潰されるという言葉と同義語の雰囲気でした。

野中さんは意に介しませんでした。選挙対策を仕切る自民党の総務局長時代、小沢幹事長にずけずけとものを言いました。

小沢さんからの指令であっても野中さんとして道義に反すると思うような公認調整には簡単に首を縦に振りませんでした。

小沢さんはのちに自民党を離党し野中さんと激しい政治闘争をすることになりますが伏線はこの時すでにありました。

私が町長になった後も野中さんは気にかけてくれました。何度も講演に来てくれました。

県知事選挙、衆議院選挙、参議院選挙と3連敗した時も一貫して激励をいただき続けました。

一連のご恩に対して何ら返してないと思うと胸が痛みます。何かお返しがしたかったです。

野中さんは、たたき上げです。町議、町長、京都府議、副知事を経ての衆議院議員です。

まちづくり全般、政策に精通しています。それで豪胆ですので官僚の皆さんにとって手強い存在でした。

私が町長の時、当時の建設省の最高幹部の方から突如電話がかかってきたことがあります。

野中さんから私の名前を聞いたということでかかってきたのです。その方とは多少面識がありました。

記憶は定かではありませんがその方と初対面の時つっけんどんな対応だったことを野中さんに愚痴ったと思います。

「梶さん(梶山静六さんのこと)の事務所にもいたことがあり並みの町長と思ってはいかんよ」と付言してくれたようでした。

最高幹部の方は慌てて電話をして取り繕ったという顛末でした。野中さんが怖かったのだと想像します。

野中さんには忖度はありません。いかんと思うことは身を挺して止めに入ります。現代にこそ必要な政治家です。