私の平成史58~実力政治家7~

梶山静六さん、野中広務さん、2人の真に実力のある政治家から薫陶を受けることができ感謝あるのみです。

ふたりに共通していたのは、身を捨てての行動力です。身を挺してという言葉が言葉だけではありませんでした。

それと戦争体験者としての真摯な態度です。二度と戦争を起こしてはならないとの姿勢は一貫してました。

実力政治家と接することで新たな実力政治家と接点を持つことができたのも大変に得難い体験です。

梶山さんとのつながりから今や安倍政権の屋台骨を支えている官房長官の菅義偉さんとの交流が生まれました。

梶山さんは横浜から選出されていた衆議院議員の小此木彦三郎さんと無二の親友でした。

菅さんは小此木さんの秘書として頭角を現し横浜市会議員に転じました。当然梶山さんと太いパイプがあります。

私は高校の同窓生より紹介を受けて国会議員に転出する前の菅さんを訪問し意見を交わしたことがあります。

事務所では陳情客が行列を為してました。菅さんが横浜市政に強い影響力を持っていることが伝わってきました。

菅さんは梶山さんのいる派閥に入ると話していました。当時の小渕派は小派閥ですが気にしてませんでした。

この方はただ者ではないなと直感しました。梶山さんをリスペクトする気持ちも強いと思いました。

1996年10月の衆議院選挙で菅さんは初当選を果たしました。横浜の中の横浜、港と駅がある選挙区です。

梶山さんは1998年7月の自民党総裁選挙に小渕派を飛び出して出馬し大善戦しました。

菅さんは梶山さんと行動を共にしました。こうした決断ができる政治家は並みの政治家ではありません。

2007年4月より私は内閣府地方分権改革推進委員会の7人のメンバーの一員になりました。

委員長は、伊藤忠商事会長の丹羽宇一郎さん、改革派知事の増田寛也岩手県知事、作家の猪瀬直樹さんらが委員でした。

名も知れぬ田舎町の町長を大抜擢してくれたのでした。全国町村会からは相当の反発がありました。

全国町村会長は、福岡県添田町で当選10回、町村会を牛耳っていた山本文男さんという方でした。

当然自分が委員になると思い込んでいた山本さんは、私が抜擢されて面白いわけがありません。

私が最初に就任のあいさつに出向いた時は、顔を見るのも嫌だという態度をあからさまに示していました。

菅さんは、当時総務大臣で山本さん委員になりたがっていることは重々承知で無名の私を登用したのでした。

当選わずか4回で安倍内閣の重要閣僚に就くや否や人事を切り口に実力を見せつけるという荒業を駆使してました。

地方分権改革推進委員会人事は、当時はかなり注目されていて無名の私の登用も菅人事のひとつの事例です。

菅さんとして満足するレベルだったかどうかは別にして期待に応えなければならないと私なりに奮闘しました。

中央省庁の官僚が一番恐れているのは人事です。人事の決定権を握って離さない菅さんは、権力維持のツボを知っています。