瀬島龍三氏について
瀬島龍三氏は、1911年に富山県の生まれで帝国陸軍始まって以来の逸材と称されました。
1945年7月終戦直前の旧満州(現在の中国東北部)へ作戦参謀として赴任しソビエトとの激闘に備えました。
ソビエト軍は日ソ中立条約を一方的に破棄し8月9日旧満州へ怒とうの進撃を始めました・
私の父、露木甚造は、圧倒的な戦力優位を誇るソビエト軍に対し捨て身の特攻作戦で応じました。
その後、瀬島氏も私の父もシベリア送りとなり酷寒の地で苦難の抑留生活を送ることになりました。
そんな二人が遭遇した時がありました。私の父の手記、『北の国に生きて』に書かれています。
私の父は瀬島氏から「露木、貴様はなぜ民主化運動をやらないのか。進んでソ連のためにやれ」と声を掛けられました。
「瀬島、それは貴様の本心か。貴様は、幼年校、士校、陸大の三校始まって以来の秀才と聞いたが、この阿呆もの!」
長引く抑留生活でソビエトに迎合する流れが強まっていたのです。瀬島氏もその流れに乗っていたのです。
父は、帝国陸軍を代表する人物がソビエトにしっぽを振る態度をとることが許せなかったのだと思います。
瀬島氏は抑留生活を経てからビジネスの世界へ転じ伊藤忠商事で活躍し副社長にまで昇りました。
政治とのかかわりを深め中曽根総理大臣のブレーンとして行政改革の推進に力を発揮しました。
父が町長だったころ、東京出張から帰って伊藤忠商事本社ビルに乗り込もうかと思ったと話したことがあります。
父が再三にわたり私に伝えた瀬島氏に関するエピソードは、強いメッセージが込められていると思ってます。
人間の価値を決めるのは頭のよさや地位や肩書ではなくいざという時の立ち振る舞いで決まるということです。
極限状態に追い込まれた時にこそ人間は筋を通すことができるかどうかが問われると言い換えても良いです。
読売新聞金沢支局から問い合わせがありました。瀬島氏の特集記事を企画しているということでした。
今月上旬7回にわたる連載記事として実を結びました。その第4回目に父のことが掲載されました。
父と一緒に反ソビエト運動を展開した仲間たちは帰国後戦友会を作り時々懇親の場を持っていました。
中心メンバーの一人が元帝国陸軍参謀の草地貞吾氏です。既に故人ですが奥様が健在でした。
奥様のインタビューも掲載されてます。瀬島氏は父の時と同じようにソビエトになびけと促していました。
これに対し草地氏は「俺には俺の考え方があるから二度と俺のところに来るな」と一喝したというのです。
シベリア抑留は、60万人近い将兵が強制労働に従事させられるという一大国際法違反事件です。
日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判で瀬島氏は、なんと敵国ソビエト側の証人として出廷しました。
もしこの場でシベリア抑留の過酷な実態を世界の世論に訴えかけたら失われずに済んだ命は多かったと思います。
瀬島氏は、その道を選びませんでした。この世で飛びぬけていた通信簿。あの世の通信簿は、この世ほど高くないと思います。