桜を見る会問題と西郷精神
私の自宅に毎月自身の政見を記したニューズレターを送ってくる著名な右翼活動家がいます。
民族主義的な視点からの論考の数々、私にとって大変に新鮮です。熟読し返信を心がけてます。
12月号が送られてきて封を開けて中身を見て仰天しました。落胆と言ったほうが正確です。
メディアで話題の「桜を見る会」についての論評が掲載されてました。結論は大目に見ようというものでした。
私はこんな文章を書く右翼は右翼ではない。右翼たるものの源流を忘れていると怒りがこみ上げました。
直ちに返信を書きました。右翼の堕落だと糾弾する内容でした。すぐに返事がきました。
目が覚めたと反省の弁が述べられてました。さすがだと一安心しました。今後の言論活動に活かして欲しいです。
私が右翼の方に伝えたのは国会で野党各党が騒いでいるような視点とは別の視点から桜を見る会問題を捉えたものです。
修身、克己、王道といった東洋政治の伝統的な視点から桜を見る会問題について問題提起しました。
東洋政治の理想の基本中の基本は、公と私の峻別、公の絶対優先という哲学にあります。
天下を治めたいのであるのならばまずは身を修めること、修身が重要だという考え方です。
この考え方を一身に背負って激動の幕末維新を歩み、維新の立役者となったのが大西郷、西郷隆盛です。
西郷が描いていた維新は、西洋の学術文化をまねしきらびやかな生活を目指すものとは真逆でした。
大久保利通や伊藤博文らの長州閥らと深刻な路線対立を引き起こし失脚する原因のひとつです。
最期は西南戦争で政府軍に敗れ自害しました。この内戦が決着したことで西郷の描いた理想は追いやられました。
西郷は道義国家として日本が歩むことを思い描いていました。西郷が死んで富国強兵・殖産興業が時代の潮流となりました。
こうした生きざまに深い敬愛の念を抱いた人物がいます。頭山満です。日本の右翼の源流を為す国家主義者です。
頭山は「玄洋社」という結社を福岡で創設し国家主義、民族主義の運動のメッカとなりました。
右翼ならば中心人物の頭山満が西郷の私利私欲を超えて生きる生きざまを深く敬愛したことを忘れてはなりません。
桜を見る会をめぐって情けない醜態をさらしている政治の現状に右翼ならばどう問い質すべきでしょうか。
西郷を敬愛した頭山ならば、どのように一喝したかを思い浮かべながら現代日本政治の忘れ物を厳しく問うことです。
政治家たるもの、いったん執務室に入った以上、私のことは考えてはならないと西郷は語ってます。
身を修め我欲を超えて公のために誠心誠意尽くすのが政治家の王道であると述べているのです。
この西郷精神こそが現代日本政治の忘れ物です。西郷死して時代を経るとともに顧みられなくなりました。
頭山が天から舞い降りてきたら今こそ西郷精神の復活の時だと訴えるに違いないと思います。
右翼得意の街頭演説で通行者に問いかけて欲しいです。振り返る人がかなりいると思います。