天皇陛下の祈りと国民の責任
天皇陛下が、昨年頻発した災害による被害者に心を寄せ、新しい年が災害のない年となるよう祈るとのお言葉を発しました。
初詣でに行ってパンパンと手を合わせる類の祈りではあります。厳格な儀式のルールにのっとって厳粛に行われます。
誠心誠意、心を込めて祈られるのですから精神的にも肉体的にも相当の負担がかかるものと思います。
では、天皇陛下が祈ってくださるのだから国民の方はただ何もせずにいればよいのかというとそれは違います。
天皇陛下の祈りを受けてそれぞれの立場でなすべきことを為さないと災害に対応することができません。
災害が起きました。手に負えませんので救援してください。国からの支援が来て一時的なしのぎが出来ました。
天皇陛下が深く心を痛められて被災地を回り被害者を勇気づけられ、陛下に感謝の思いを持ちました。
このところ大きな災害が発生するとこのパターンが繰り返されているように思います。
関係各位、それぞれの役割を果たすために頑張っていることはわかります。でも何かが足りません。
私は被害者も含めて自己責任という認識が希薄なことが災害対応の方向性を間違った方向に持って行っていると思います。
被害者も、万一に備えて本当に万全を尽くしていたのかを問い直す必要があると思えてなりません。
なぜこういった事態に立ち至ったのか、本当に自分に責任はないのかを直視する必要があります。
地盤の悪い非常な急傾斜地に家を建てて集中豪雨で住宅に被害が出たら建てた人の責任はゼロなのでしょうか。
決壊や越水する危険性のあると警告されている堤防の脇に住宅を建てて実際のそうなったら被害者の責任はなしでしょうか。
避難してください。これは命令ですと言われて避難したら非難する場所がごった返していて避難ができませんでした。
昨年の台風19号で東京都内などで実際にあった話です。受け入れ場所がないのに避難勧告、避難指示が出ていたのです。
行政としてやってはいけないことを平然とやり続けていたことを実証したことになります。
この背景には、行政の責任逃れがあります。国の基準に従って避難勧告や避難指示を出したという言い訳です。
実際は避難場所がないのですから幻想をぶりまいていたわけで避難の途中に事故が起きたら大問題です。
長野県千曲市では、かすみ堤と呼ばれる遊水機能を果たすところが水があふれ出て市役所などに浸水しました。
市長は、遊水機能を果たしていたかすみ堤を閉じる検討を国に申し入れると発言しました。
目先の自分のことだけを考えた議論です。遊水機能をなしにしたらどこかにしわ寄せが行くのは当たり前です。
かすみ堤という遊水地の近接地に市役所を立地した責任はどのように考えているのでしょうか。
自分の責任を棚上げにして要求ばかりする姿勢が蔓延すると本来の災害対応とはどんどん遠のいてしまいます。
ひとりひとりの国民も、行政も、自己責任とは何か、どこまではやっておかなくてはならないか明確化が必要です。