昨日は、東京へ出かける所要がありました。体調不良なので行きも帰りもロマンスカーにしました。

ゆったりと車中でじっくりと読み込もうと思っていた新聞記事がありましたのでちょうど良いと思ってました。

神奈川県相模原市の津久井やまゆり園で2016年7月に発生した19人殺傷事件のことです。

初公判での植松聖被告が何を語るのかに強い関心がありました。私の思惑は完全に外れました。

植松被告は、謝罪の言葉を述べた後、指をかみ切るような不審な行動をして裁判は一時休止となりました。

植松被告は退廷となり被告人不在のまま裁判が進められました。植松被告は動機について語る場から去ってしまいました。

穿ってみればひょっとしてわざとやったのではないかという気もしないでもありません。

謝罪の言葉とその後の奇怪な行動を見せつけて法廷から去ることで善意と狂気の両方を見せた可能性があります。

良心はあります。でも私は精神が安定しおらず罪を問われるような人間ではないと演じたかもしれません。

真相はやぶの中です。植松被告の動機を語る言葉がなければこの裁判は意味がありません。事実関係に争いがないのですから。

戦前の昭和期にも要人を狙ったテロリズムや維新を唱えた青年将校たちの決起が相次いだ一時期があります。

社会の矛盾を目の前にした青年が自らの苦しい境遇と照らし合わせ権力者たちを標的に歯向かったわけです。

個人的テロもあれば集団的決起もありました。共通しているのは社会の矛盾を変革するという思いでした。

手段については賛同はできなくても悲惨な暮らしを余儀なくされている弱者を救うという思いはありました。

ところが植松被告のケースは、弱者を抹殺すれば社会が良くなるという倒錯した思考が感じ取れます。

邪魔者は消せと短絡しています。何でそのように思うのか誰しもが聞いてみたくなります。

この思想の延長線上には第二世界大戦中にナチスドイツが行ったユダヤ人の抹殺とつながってしまいます。

戦前のテロ事件については、よくぞやったという称賛の声も根強くありました。弱者を救うという心が伝わったからでしょう。

90年近くたった今発生した事件は、戦前の事件のように明確な政治性は全くありません。

あたかもゲームをしているかのように次々と殺傷していったかのように受け止められます。

共感する声はどの程度あるのかが気になります。水面下で植松被告の行動を是認する人はいるはずです。

一定の勢力に達していればナチスのような政治思想がむくりと首をもたげていると言わざるを得ません。

世論調査を行ってもなかなかそうした声は表に出ず、声なき声として存在するので不気味です。

まずは、裁判を通じて植松被告の動機について迫って欲しいです。これが全ての解明の第一歩です。

次は、解明した動機に基づいて植松被告に対する共感がどの程度の広がりがあるか追及することです。

戦前とは違った形で弱者を標的にするテロリズムの時代が忍び寄っている危険性はあります。