私の平成史58~知事選・衆院選・参院選3~

今思い返してみてもなぜ神奈川県知事選挙に挑戦したのか、もやもやした部分があります。

自民党が現知事の黒岩さんの擁立に向かった時点で引き返そうと思えば町長に踏みとどまることもできました。

黒岩さんの体制がオール与党体制になり圧倒的な不利な状況に追い込まれた段階で逆に燃え出したのですから不思議です。

しかも出馬の記者会見をしようとしたまさにその時に3・11が発生し選挙運動に大きな障害が出ました。

知名度に天地の差がある訳ですので国民の関心が東日本大震災に集中してしまうことは更に不利な状況を意味します。

目に見えない何かに突き動かされたとしか言いようがありません。生まれる前からプログラミングされていたかのようです。

絶対に引き下がれない状況が自然とできて行きました。その結果私も開き直ることができました。

冷静に外から見ている人から見れば無謀な戦いであることは間違いありません。でも挑戦したのです。

知事選に出る出ないを考えていた時は落ちたらどうしようとの不安感が常に頭をよぎってました。

それがいつの間にかなるようになる、やるしかないに変化しました。きっかけがわかりません。

思い当たる節がひとつあります。町長の座を譲る必要があるという罪悪感を抱えていたことです。

2007年4月の統一地方選挙の足柄上地域の県議会議員選挙まで話はさかのぼります。

この時、私は開成町議会議長だった現町長の府川裕一さんを擁立し自民党の候補者との戦いを挑みました。

相手は、前回の選挙でいちど出馬していて知名度がありました。これまた不利を承知で勝負を賭けました。

大善戦でしたが敗れました。府川さんは働く場を失いました。当然のことながら生活に支障が出ます。

出馬を強く促したものとして責任があります。適当な職を紹介することができないまま時が過ぎていました。

府川さんは、若くして町議会議長を2回もやっているので町長になる資格はあると見られています。

地位を譲るべきではないかとの思いが頭をかすめていました。しかし辞めれば私の方が風来坊になってしまいます。

そんな時に県知事選挙出馬の話が飛び込んできたのです。ここでやるしかないと決心した裏の理由です。

府川さんに恩を着せようということではありません。自分自身の生き様に納得がいかなかったのです。

自分は、安泰の立場にいて、他人の生活を苦しめているのは、気持ちが良いものではありませんでした。

きっかけがあれば吹っ切りたいと思っていました。知事選挙に敗れはしましたが出馬の選択は納得してます。

政治の世界は、このような情念が背後にあって動くものです。表に出る大義名分だけではありません。

選挙結果は、黒岩さんが173万票、私が、82万票、共産党系の鴨井さんが47万票でした。

オール与党の候補によく戦ったとはいえダブルスコア以上の差を付けられてしまいました。

県知事選挙のような大きな選挙は、知名度と組織力、資金力は絶対でした。いかんともし難かったです。