私の平成史60~知事選・衆院選・参院選5~

私は、2012年12月の衆院選まで政治家として無所属を貫き、地域密着の草の根運動を大切にしてきました。

1996年10月初めて衆議院選挙に出馬し大物河野洋平さんにぶち当たった時も無所属でした。

振り返ってみると相当な無理があったと言わざるを得ません。多勢に無勢、竹やり戦法のようなものでした。

多くの支援者の皆さんに随分と迷惑をかけてしまったものだと思います。足を向けられません。

2012年の衆議院選挙で生まれて初めて政党に所属しました。出来立てほやほやの日本未来の党です。

この時の衆議院選挙は、元自民党の大物亀井静香さんに着いていき指導を仰ぎつつ戦いました。

尊敬して止まない野中広務さんが私の選挙の成り行きを心配し亀井さんを紹介してくれました。

野中さんも衆議院選挙を戦うのに無所属のままでは無理があるとの判断からの紹介だったと思います。

亀井さんは当時小沢一郎さんと組んで新しい政党を立ち上げようとしていましたので候補者を探していました。

野中さんと亀井さんの考えが一致しました。政治の政界で名を成してきた両氏の判断に従いました。

当時滋賀県知事だった嘉田由紀子さんを党首の担ぎ上げて日本未来の党が結党され阿部知子さんが副代表となりました。

阿部さんは藤沢市と寒川町を選挙区とする神奈川県第12区です。阿部さんの応援も得ての選挙戦でした。

政党に所属すると出来立ての政党であっても看板を立てることができます。政党のチラシが配布できます。

大政党とは比べ物にならないと思いますが資金的な援助もあります。無所属より断然運動はやりやすいです。

国政レベルの選挙は政党の所属しない限り手に負えないということが実感として理解できました。

これまでは、無所属、草の根の理想論に走り過ぎて選挙をどう戦うかという勝負の世界を軽視してました。

河野洋平さんと戦った衆議院選挙でも政党に所属し公認候補として戦っていれば様相が変化したと思います。

1996年の選挙の時は、鳩山由紀夫さんと菅直人さんらが立ち上げた民主党がちょっとしたブームでした。

この時の民主党は、2009年の夏の選挙で政権を取った民主党ではなく、小沢一郎さん抜きの政党でした。

私を公認したいと打診がありました。理想にこだわってしまい公認は断り推薦だけを受けました。

公認候補と推薦候補は、支援の強度に天地の開きがあります。結果論ですが判断を誤りました。

選挙戦で私がかなり善戦しているということで菅直人さんが小田原に応援演説に来てくれました。

しかし、時すでに遅しだったです。もっと早くから開き直って公認候補となっていれば結果は異なってました。

無所属で59000票でした。公認候補になれば、政党の比例代表の候補にもなれました。

歴史にもしもは禁物ですが1996年10月に比例代表復活で衆議院議員露木順一が誕生していたと思います。

その代わり開成町長露木順一はありません。どっちが良かったかというと開成町長に軍配が上がります。