あれから9年
今年の3月11日午後2時46分は自宅の庭で迎えました。2人の孫君と一緒にサイレンに合わせて黙とうしました。
弟君が「黙とうって何?」と聞くので大きな地震と津波があって大勢の人が亡くなったので南無南無するんだよと答えました。
あれから9年が過ぎたんだという感慨が襲ってきました。その時私は東京永田町の衆議院第2議員会館610号室にいました。
神奈川県知事選挙出馬の記者会見をするためでした。推せんを得たみんなの党の江田憲司さんの事務所で行う予定でした。
開始予定時刻は午後3時からでした。早めに会場入りして集まった記者の皆さんと雑談をしていました。
突如として大きな揺れに襲われました。テレビのニュース速報が震度7というテロップを流しているのが目に入りました。
東北で巨大地震が起こったようでした。津波が心配されました。東京の揺れもかなりのものでした。
記者会見の会場もてんやわんやの大騒ぎとなり会見は中止となりました。電話を借りて開成町役場と連絡を取りました。
開成町の方は大したことはないとのことで一安心しました。議員会館のエレベーターは止まってしまいました。
役場に戻らなければという思いに駆られて階段を下りて行き地下鉄はダメだろうと判断し新橋駅に向かいました。
蒸気機関車が置いてある通称SL広場は人でごった返してました。電車は動いていません。
巨大なスクリーンで流されていたテレビの中継画面をみんな食い入るように見つめていました。
時々刻々津波が迫ってきている様子がテレビから流されていました。ついに沿岸にやってきました。
住宅や田畑を飲み込んで津波が遡上していく様子が映し出されるとどよめきが起き「オー」という声が挙がりました。
携帯電話はすでにつながりにくくなってました。はっと思いついて近くの交番に飛び込みました。
交番の固定電話は災害時の有線電話になっていいるはずと思ったのです。ズバリ当たりました。
私が事情を説明すると警察官の方がすぐに電話を貸してくれました。開成町役場とつながりました。
固定の災害時の有線電話は連絡手段として極めて大切な道具だということを身をもって知りました。
交通機関が止まってしまっていては帰れません。思いついたのが神奈川県の東京事務所でした。
国会の近くの都道府県会館の中にありました。1時間ほど歩いたでしょうか。一時の避難場所として使わせてもらいました。
助かりました。用意してくれた部屋でソファーに座りながら交通機関の再開をひたすら待ちました。
地下鉄の開通が早かったです。地下鉄で新宿駅までたどり着き未明の発車の小田急線で開成町までもどりました。
開成町役場に到着したのは早朝でした。開成町は平穏無事でした。この日から私は激動の渦に巻き込まれました。
未曽有の巨大災害です。報道は一色です。そして恐怖の原発事故が追い打ちをかけました。
当然のことですが世情は、もはや選挙どころではないという雰囲気となりました。県知事選挙は厳しいものとなりました。