余命(よみょう)をどう生きるか

3月29日の日曜日、父の37回忌を行いました。家族と義理の兄だけ、身内だけの小さな法要でした。

父が生前会っていないのは、長男の嫁と3人のひ孫です。元気いっぱいの男の子を見て喜んでいることでしょう。

開成町長を5期20年務めた父は町長を辞した翌年の1984年4月11日に突如この世を去りました。

父死去の知らせを勤務先のNHK姫路放送局の部長より受けた時、驚きとともにそうだったのかという感慨がありました。

亡くなる年の正月家族3人で帰省し姫路に戻る時、父は珍しく玄関先まで出て来ました。

体格の良い父が和服姿で玄関前に仁王立ちして見送る姿を見てなぜか涙が溢れました。最期の別れでした。

なぜ涙が出るのか不思議でなりませんでした。死の知らせを受けて初めて納得ができました。

父、露木甚造の人生は、帝国陸軍の軍人が基調となってました。軍人魂は生涯、保ち続けてました。

1945年8月9日、ソビエト軍は一方的に日ソ中立条約を破棄して中国東北部に侵入してきました。

当時の中国東北部は満州国という日本の傀儡国家が支配していました。ソビエト軍と記録に残る激闘となりました。

父は国境を守るための大隊長でした。爆弾を背負って敵戦車の下にもぐって破壊するという特攻作戦でした。

多くの若い部下をこの戦闘で亡くしました。戦争で死ぬために生まれてきた世代だと語っていました。

ソビエト軍との戦闘後、父は酷寒の地シベリアに送られて抑留生活4年半の過酷な体験をしました。

ソビエトの独裁者スターリンに迎合することなく抑留生活を過ごし切ったことは人生の原点にひとつとなってました。

1950年4月に日本に帰還し家業の農業を継いだ後政治に打って出て町会議員を経て町長となりました。

私は、父の後半生は、おまけの人生だと思います。ソビエト軍との激烈な戦闘と過酷な抑留でいちど人生は閉じてます。

多くの若い部下を戦闘で失い生き残った大隊長の残りの人生は、常に捨て身の構えだったように思います。

一度死んでますので怖いものはありません。政治的な闘争といっても命を奪われるわけではありません。

開成町全域を都市計画区域に編入し計画的なまちづくりを貫徹したど根性は、おまけの人生で捨て身の構えから生まれました。

先週末、神奈川県政界の大立者として名をはせた元自民党神奈川県連会長の梅沢健治さんと会う機会がありました。

神奈川新聞に「わが人生」という連載をして最終回に横浜市が進めているカジノ施設誘致の反対論をぶちました。

梅沢さんは、現在91歳です。神奈川大学の私の講座にゲストとして登壇いただきたいとお願いしました。

お役に立てるのならばと快諾いただきました。梅沢さんは巧みな言葉で現在の心境を語りました。

「俺はもう寿命は尽きているので残りの寿命、余命をどう過ごすかを考えてカジノの反対をしている」と言われました。

余命という言い回しに強く反応しました。父の生き様が浮かんだからです。おまけではなく余命と呼ぶのが相応しいです。