躍動感が乏しくなった里の表情
大学も全面オンライン、参与をしている企業も在宅でオンライン会議中心となって家にいる時間が増えました。
孫君たちも小学校、幼稚園がないので家にいます。朝から田んぼを一緒に見に行こうとせがまれます。
目がいい孫君たちは小さなオタマジャクシをすぐ見つけて大騒ぎをしています。老眼の私には無理です。
夜になると3番目の赤ちゃんもやってきて一緒にホタル観賞です。昨晩は20匹近く出て来ました。
孫君たちと一緒になんだかとっても幸せな気分に浸ることができます。ありがたい限りです。
しかし、内心、何かが違うという心の中の疑問が徐々に大きくなってきています。自然の姿が違うのです。
私がたんぼの周りを飛び回り始めた60年前と違うのは当たり前ですが30年前とも異なってます。
田んぼ全体の表情が貧相になっているのです。カエルの種類は明らかに減りました。蛇はめったにいません。
田んぼの水面をすいすいと駆け回るあめんぼうも少ないです。タニシもタガメも同様です。
流行りの言葉で言えば”多様性”がなくなってきていて生物のうごめきや躍動が感じられないのです。
自然観察の研究者ではありませんので極めて感覚的な受け止め方で恐縮ですが実感です。
あしがら平野を南北に流れる酒匂川を隔てて東隣の大井町は子供たちが遊べる場づくりに熱心です。
子供たちが遊べるせせらぎとか沼とかを整備していて開成町の子供たちも良く利用させてもらっているようです。
昨日、お兄ちゃんと次男の僕にせがまれて”ひょうたん池”という遊び場に連れて行きひと時過ごしました。
平日でしたので私ら3人だけでした。静かな池の様子で拍子抜けしました。魚も生物もいません。
蓮の花などの植物は育っていました。植物は動きが見えませんので本当にしーんと音が聞こえるようでした。
ザリガニでもいるかなと思って老眼を凝らしました。池に注ぎ込む小川にも動きはありません。
メダカがいるかもしれないというので探しました。全くその気配はありません。水面は風に揺れるだけでした。
仕方なしに近くの田んぼでオタマジャクシをとりました。ぽつりぽつりきたので家に帰宅しました。
1962年に農薬がもたらす危害を告発した『沈黙の春』という衝撃の書がアメリカで出版されました。
日本でも直ちに翻訳本が出版されて大きな反響を生みました。題名の「沈黙」という言葉に深い意味があります。
春なのに鳥たちのさえずりが聞こえないのはなぜかという鋭い問題意識からこの本は書かれているのです。
私は著者のレイチェル・カーソンのように専門家ではありませんので根拠を持って語ることはできません。
しかし孫君たちと故郷の原風景を楽しんでいるうちに「沈黙」というカーソンの言葉が響いてきました。
何か異変がじわじわと起きているのではないかという言いようのない不安感というかわだかまりが消えません。
農薬を減らしたり様々な努力を現在農家の方々はしています。それにもかかわらず生命の躍動感はへたってきてます。