日中戦争の実相
日本人として忌々しい歴史から目をそむけたくなる気持ちは誰しもあります。
最たるものが日本軍が中国大陸で行った戦争です。真剣に向き合ってきてません。
いまだ自衛のための戦争であったという論理を振りかざす人がいるの現実です。
日中戦争は、大東亜共栄の美名のもとに繰り広げられた侵略戦争との歴史観を持ってます。
では日中戦争の実態はどうだったかと問われるとはなはだ心もとないです。
旧満州派遣の帝国陸軍の大隊長だった私の父は、ソビエト軍との激闘について雄弁に語ってました。
ソビエト軍は、太平洋戦争最終版の8月9日日ソ中立条約を一方的に破棄し旧満州に攻め込みました。
身を挺して徹底抗戦した戦闘の模様を熱く語る姿を何度も目にして育ちました。
しかし父は、旧満州内での戦闘や日中戦争については私にほとんど話しませんでした。
そんな歴史上の空白を埋めてくれる著書がありました。『日本軍の治安戦』という本です。
日本軍の戦争責任を問い続けている歴史家の著書で「日中戦争の実相」との副題がありました。
女性史研究家の宇佐美ミサ子さんの書棚の整理をしているうちに見つけ読み始めました。
なかなか頁をめくることが出来ず、そのまま考え込むこともしばしばでした。
1937年7月7日の北京郊外で起きた盧溝橋事件で日本は中国と戦争状態となりました。
この年の暮れに後に東京裁判で衝撃を与えることになる南京虐殺事件もありました。
日本軍は上海や広東などの大都市を次々と陥落させ支配地を拡大したと理解してました。
ところが実態は、旧満州と接する華北と呼ばれる中国北部地域で激烈な戦闘が続いてました。
日本軍は掃討作戦を実施しました。中国共産党軍の根拠地が点在していたからです。
中国共産党軍のゲリラ戦には日本軍は苦しめられ日中戦争が泥沼化する要因となりました。
今から80年前の1940年の8月から10月共産党軍の総攻撃で大打撃を受けました。
日本軍の配置図面を見てうなりました。山西省のある地域が目に入りました。
「河津県」です。日本軍が駐屯してました。治水神禹王廟が存在していたところです。
現在はありません。2013年現地を訪れた私に現地の方が日本軍に破壊されたと言ってました。
「夏県」という地名も見つかりました。共産党の根拠地の一翼となってました。
日本軍が徹底したせん滅作戦を展開したことがまとまられた記録から伺えました。
自分のこの目で実際に見た景色と日中戦争の歴史が一気に結びつきました。
日中戦争の実相に無知だった私は現地の方が語る言葉の重みを受け止められませんでした。
思い返してみて痛恨事です。歴史を学び現地を訪れなかったのが恥ずかしいです。
日本と中国の関係を考える場合は日中戦争を抜きにして語ることは本来あり得ません。
中国側は歴史を絶対に忘れません。日本側が忘れようとしても無理です。
目をそむけたい歴史であっても事実と向き合う姿勢は断じて堅持すべきだと再確認しました。