丸山政治学で政治を斬る1~「する」論理の黄昏~
1958年10月の丸山眞男の講演「であることとすること」その輝きは失われてません。
他の論文や講演と合わせ、岩波新書『日本の思想』として出版され不朽の名著となってます。
権利があるからと安直に構えていると逆に権利を脅かされる事態を招きかねません。
民主主義という制度があることと実際に民主主義が機能していることとは別個の問題です。
丸山は、権利、制度、立場によりかかる姿勢を「である」論理と名付けました。
日本は、外圧による開国で急速な近代化の道を歩んできた過去があります。
また、惨たんたる敗戦の中で価値観の大転換が外力によってもたらされ新憲法が制定されました。
こうした歴史を持つ日本はどうしても「である」社会の価値観がしぶとく生き延びます。
西欧社会のように権力と戦い人民自らが権利を得た体験が乏しいからです。
自ら獲得した体験があれば得たものを失なわないよう常に点検する行動をとります。
こちらを「する」論理としました。日本で「する」論理が脆弱なのは、宿命だと言えそうです。
「である」論理の社会は、大変革への対応が下手です。現状にどっぷりとつかり易いからです。
地方政治の現状を見ていると、丸山の分析がそっくりそのまま当てはまります。
地域のトップである首長が、その座にいること自体で満足しているように思えて仕方ありません。
地位に就いた目的は本来ならばその地位に就いて何を「する」かであったはずです。
しかし、悲しいことにそうした「する」論理に立つ首長は際立って少数派です。
これでは新型コロナのような非常時に有効な手立てを打てるわけがありません。
「である」論理から導かれる新型コロナ対策は、みんなで責任を国に転嫁することです。
確かに国家の医療政策は国の専権事項です。しかし、新型コロナは地域によって格差があります。
都道府県知事が国からの反撃覚悟で国に対策を迫ればもう少し何とかなると思えてなりません。
知事たちが激しく政府に対し迅速果敢な行動を求め反乱を起こせば国は慌てふためきます。
国は、新型コロナ対応に際し財源問題が常に念頭にあり容易には動きません。
経済振興の方へ前のめりでブレーキを引くことに決断が下せなかったです。
勇気ある知事がGOTOは止めろと叫んでいたらもっと早く止まったはずです。
知事が「する」論理に立ち非常事態に相応しい対応をとれば事態は動きます。
しかし知事たちの行動は「である」論理の御身大切で捨て身の諫言はありませんでした。
知事は中央省庁出身者が多く全国知事会の会長も旧自治省の出身者です。
そもそも中央省庁の官僚は、「である」論理を取り扱うのに長けている存在です。
既存の秩序を壊してまで革新的な行動をとることはしません。泥をかぶらないです。
国の対応がまどろっこしい現状では、知事たちの「する」論理の反乱は住民の支持を得るはずです。
果敢に立ち向かった知事は評価されてた立場は強固となり発言力が増すと思います。