日本を代表する政治学者の丸山眞男に「である」ことと「する」ことという珠玉の講演があることはブログに書きました。

今日は、丸山先生の向こうを張って政治学の主要テーマである権力について論じてみたいと思います。

極めて単純化すれば権力の使い方には2種類あります。権力を「行使する」ことと「振り回す」ことです。

「権力を行使する」とは、誰が行使するのか主体が明確で、行使したのちの結果責任が伴います。

「権力を振り回す」とは、行使する主体は必ずしも明確でなく、結果責任もあいまいなところに特徴があります。

日本の政治における最高責任者は総理大臣です。総理大臣は権力を「行使する」のが当然のことです。

総理大臣という明確な主体が法に則って権力を「行使し」、結果責任についても自ら背負うのです。

国家権力のトップで権力を「振り回す」ことは立憲主義に立つ民主主義国ではあり得ません。

北朝鮮か中国のような独裁国家でない限り無理です。憲法も法もありますし国民のコントロールもあります。

権力の頂点ではなくナンバー2や3が権力を持った場合は権力を「行使する」のか、それとも「振り回す」のでしょうか。

極めて微妙な問題です。日本の場合総理大臣を補佐する要の役割を果たすのは官房長官です。

官房長官が権力を持つと総理大臣の「権威」のもとで自らが実質的に「権力」を持つことと同じ意味を持ちます。

俗っぽい表現を使わせてもらえば総理の威を借りるのです。この場合は権力を「振り回す」恐れが強まります。

主体があいまいだからです。総理の名を借りて官房長官が仕切るからです。結果責任も不明確になります。

菅総理大臣は、安倍総理大臣の下で官房長官を7年8か月務めました。らつ腕と言われ怖れられました。

安倍総理の名の下で実質的に権力を持ったからにほかなりません。権力を「振り回す」ことが出来たのです。

菅総理にとってこの経験が権力とは何かを認識する上で原体験になっているのは間違いありません。

権力を「振り回す」ことができる立場になり畏怖されることになると忖度(そんたく)の傾向が助長されます。

菅官房長官としては黙っていても言うことを聞く官僚文化が定着したような感覚を覚えたことでしょう。

そうした原体験を持つ菅官房長官が主体となり権力を「行使する」立場になったらどうなるでしょうか。

政治術の超人でもない限り混乱します。主体が明確になったとたんに批判にさらされるからです。

権力を「振り回す」ことはもはやできません。民主的な統制が効いて独裁者のような振る舞いはできません。

菅総理大臣の権力観の混乱は、新型コロナウィルスの感染拡大の環境を促すことにつながりました。

権力を「行使する」体験不足が露呈し後手後手に回ることになったからです。ウィルスはほくそ笑んでいるでしょう。

修正は難問です。権力を「振り回す」原体験を乗り越え権力を「行使する」技術を会得するのは簡単ではないからです。