国政雑感1

18日から通常国会が始まり、補正予算をめぐる予算委員会のやり取りを視ました。菅総理の元気のなさが目立ちます。

NHKプラスでインターネット配信されるようになって時間がある時にパソコンで視れるようになったのは便利です。

答弁に立つ際に億劫そうに見えます。一時期はかなり声がかすれ体調が心配されるほどでした。

”口撃”が取り柄である立民党の蓮舫参議院議員に責め立てられました。「失礼ではないか」と反論する場面もありました。

たたき上げの凄味が消え衰弱したかのように見えるので蓮舫さんの餌食になってしまったと思います。

同じたたき上げでも野中広務さんが相手だったら蓮舫さんはあれだけ言いたい放題は言えないと思います。

ろくに現場も知らずにほざきやがって何様だという無言の圧力がかかるからです。これがたたき上げの迫力です。

現在の菅総理は突如日の当たる場所に飛び出してしまい干からびたかのように精彩を欠きます。

唯一元気さが戻ったと感じたのはアメリカのバイデン新大統領との電話会談の模様を記者団に報告している時でした。

笑みが見えました。会談の中身が自分が思い描いたように進んだからほっとしたのでしょう。

穿って視れば自分より上の立場の人に認めてもらったということで喜んでいるとも受け取れました。

菅総理がたたき上げの凄味を発揮できない原因を伺わせるやり取りがありました。新型コロナ対応をめぐってです。

総理に就任以来、ひと時も休まず総理大臣の職責を果たすために頑張ってきたことも理解して欲しいと答弁してました。

この菅総理の答弁は意外でした。たたき上げの政治家はやるかやらないか、実践が凄味の原動力です。

一生懸命尽くしてきたから認めて欲しいといった泣きを入れることは本来の態度とはほど遠いです。

菅総理は新型コロナのまん延状況を自らの結果責任として受け止めるだけの開き直りがないのです。

トップが頑張ったから許してなんて言い出したらだれが責任をとるのだということになります。

総理大臣のあるべき姿勢は自分は結果責任、部下は、プロセス重視でかばうのが本来の在り方です。

政治学の古典中の古典、マックス・ウェーバーの『職業としての政治』の中に政治家の責任についての言及があります。

第一次世界大戦で敗れ革命の熱狂が漂う中でドイツ人のマックス・ウェーバーはあるべき政治について講演をしました。

責任の取り方には「心情倫理」と「責任倫理」があると述べて、後者の重要性を強調しています。

わかりやすく言えば「心情倫理」は、プロセス重視、「責任倫理」は結果重視の責任の取り方です。

プロフェッショナルな政治においては結果が大切なのです。菅総理の政治責任への態度は誤ってます。

いつまでたっても自らの責任を受け止めることが出来ず、判断が後手後手になる要因を作ってます。

菅総理が求本来の凄味を取り戻すためには結果責任を受け止めることです。過ちを認めることから再出発です。